ビタースイート

人生は 甘くて苦い

結婚したい理由は、「自分が生まれた意味を探している」から?

こんばんは。

月曜の夜っぽくない日記を書きます。

 

婚活する前から、いや、もっともっと前、小学生や中学生のころからずっと私は「よく考える子だねえ」と言われてきました。

ここでの「よく考える」というのは、考えてから行動するタイプだとか計算高いとかそういう意味ではなくて、ちょっと哲学的な意味だと思う。というか「普通の人が考えないようなことを考える」といったほうがいいのか「なんでそんなこと考えるの?どうしてそんな発想があるの?子どもの考えとは思えないよね」というようなことを何度か周りの人や学校の先生、親に言われたことがある。

どちらかというと想像力がありすぎるというか、感受性が強すぎることは自分でも感じていた。なので、本や映画やドラマなんかにも感情移入しすぎてよく泣いていた。

 

だからかわからないけど、私は物心ついてから今まで、何度か「死ぬことが怖い」と強く思ったことがあります。みんな怖いと思ったことは多かれ少なかれあるでしょうが、平均的な人よりは強く感じていて、私の中でのひとつの乗り越えるべき対象なんだと思います。

以前よりもマシになったかなあと思っているのですが、まだ、それに対する折り合いは正直つけられていません。

 

 

 

 

 

最初に思ったのがいつだったかはハッキリ覚えていて、小学校の低学年のときに、低学年向けの雑誌を読んでいて戦争の特集を読んだときでした。

「戦争…こわいよ。」と父に泣きながら言った。そのとき急にリアルに「死ぬこと」を想像して、本当に怖くなったことを覚えています。人は死んだら何もなくなるんだ、自分の体もなくなってしまって無になるんだということを子どもながらになんとなく意識して、言いようもない恐怖におびえました。

「人はみんな死ぬけど、お父さんもお母さんも天国でやよいのこと待ってるから、そこでまた楽しく暮らせるんだよ。」と父が言ってくれた。それは大人になった今では気休めでしかないのはわかるけど、その当時、とても安心したのを覚えている。もし結婚して子供が生まれたら私も同じように言ってあげたいと思った。

 

 

人は死んだらどうなるかということについて深く考えた期間は人生の中であと3回あった。次の時は14歳の時だったと思う。結構自由な時間があって暇だったというのもあるけど、病気の子が主人公のドラマを見たりして、自分も友達も家族もみんないつかはいなくなるんだということをまた強く意識するようになって、なんだこれ?と思いながら、時計の秒針の音が怖くなった。

 

 

その次の時は18歳の時で、この時のことを私は最もよく覚えている。

高校を卒業する前、11月~3月くらいまで。つまり受験期とも重なるんだけど、そのくらいのとき、ずーっと死ぬのが怖い、死ってなんだろうという命題がぼんやり頭の中にあった状態が3か月くらい続いた。

私は、その傍らでは最後の高校生活をエンジョイしていた。多分これも考えさせられる大きな理由のひとつだったと思う。高校生活は本当に楽しくて楽しくて仕方がなくて、天国みたいな日々だった。今思えば人生で一番楽しかったのは高2・高3の時だった。大好きな人もいたし、大好きな友達もいすぎて、自分の好きな勉強もして友達と切磋琢磨して、好きなだけ遊んだり語り合ったりできるしドキドキもある、最高の時間だった。将来の夢を描いたり、恋愛の話をしたり、みんなこれから待っている大学生活を前にして青春を謳歌していた。

だからこそ同時に、この高校生活を終えることに対して病的なほど「さみしい」という感情にとらわれた。そして、なんともいえない虚無感、無常を感じた

この日々を終えたくない、でもみんなと離れ離れになってしまう、完全に別々の道に行ってしまって、この先の人生でこの人たちと交わることはなくなってしまうかもしれない、と実感した。それが強烈に悲しかった。引っ越し、卒業、転職、なんでもそうで、人生に別れはつきものだけど、この時ほど楽しかった日々が終わることに対する何とも言えないつらさを感じたことは、後にも先にもなかったと思う。

たぶん人生の岐路に初めて立たされて、感受性がより強くなっていたのかもしれない。

こういう心理状態で改めて「死ぬことが怖い」とふと思った。怖いと思っている人はみんな同じ論理で怖いと思っているのだろうけど、お別れが怖いというよりは、「自分」という存在が完全に「無」になってしまうのが怖く、今ある感情や意識、何もかもが永遠の「無」の状態になってしまうのが、言いようもないくらい怖かった。かといって、死後の世界があって自分の魂が永遠にあるというのもそれはそれで怖いと思ったり。いろいろ、ああでもない、こうでもないと考えては病んでいた。

インターネットの質問サイトでも死ぬことが怖いことを質問した。ごく一部の仲の良い友達、親ともこの話をした。お坊さんをやっている人に相談したこともある。その方は「俺らは生きているんじゃなくて生かされている。だから大きな船に乗ったような気持ちでゆらーっと身を任せていればいい」と言っていた。それがなんとなく腑に落ちた。

 

 

最後に怖いと思ったのは、24歳の時だった。

そのときは元彼と付き合っていた。周りも結婚し始めていて、ぼんやりとではなくてはっきりと将来を考え始めた時期だった。そして、今の仕事に転職する直前で、転職活動をしていた。毎日時間にゆとりがあって、変に考えてしまうタイプの私にとってはこれがよくなかった。

再び「死ぬのが怖い」ループに陥ったのは、自分の周りの友達でも何人か亡くなった人がいたからだった。かつて仲良く話した人が「もうこの世にいない、あの人の感情も今はもうない」という嘘みたいな事実は、頭では「そういうこともありうる」とわかっていても、結構受け入れがたいものだった。

病気のことが過剰に心配になって、今まで気にしていなかったちょっとした体調の悪い日、途端に心配でたまらなくなった。元彼も「ちょっと心配しすぎだ」と言っていた。とにかくこのころは、元彼と結婚の話も出ていたけど、些細なことで情緒不安定になっていた。表面上は幸せだったけど中身は不安でいっぱいで、自分の中では今よりよっぽど暗黒期だったと思っている。目に見えない不安にとらわれて生きていた。

 

 

それで、この話と結婚と何の関係があるの?と思われると思う。

 

 

実は、婚活を始めてからずっと断続的に考えていた。

私いつからこんなに結婚願望が強くなったんだっけ?って。

 

 

私はもともと他者と一緒に生活することが面倒だと考えていて、一人の時間が全く苦にならないタイプだったから、前の彼氏と付き合うまでは結婚願望はほとんどなかった。少なくとも22歳くらいまでは、全然。正直、今でも結婚向きの性格ではないかなと思うことも何度もある。

 

じゃあどうしてだろう?と改めて思えば、その理由の一つはたぶん、大好きな人との子供がほしいからかなと、最近とみに思う。子供がほしい理由はいろいろあるけど、結局のところは「人はいつか消えてしまうけど、自分と自分の好きな人が生きた証を残したいから」かもしれないと最近思っている。自分が死んでしまっても自分の一部をどこかに残したいという本能的な欲求もあるんじゃないかと。私だってご先祖様の持っている要素をもらって自分があるのだから、その命のリレーをつなぐという使命があるじゃないかと。

 

そういう風に考えたことがあって、その時「向かってくる死に対して何もできない」という無力感から救われた気がした。だから私は、というか人は、「結婚したい」と思うのかもしれない、と思う。

 

 

ちなみに今も死ぬことが怖いのは変わらないけど、それでも日々の生活で自分の生きる意味を少しずつ見出すことができそうだし、「限られた時間なんだからやっておきたいことがたくさんあるし時間が足りない」と思うようになった。少しでも有意義に時間を使いたいと思うようになった。これはただただ怖いと思って悶々としていた青春時代よりも、進歩かもしれない。